沖縄戦跡巡り

2018年4月28日 16時45分 | カテゴリー: トピックス

海老名ネット平和部会のメンバーで沖縄戦跡巡りをしました。

4/12(木) 6:01海老名発~羽田7:55発JAL903~那覇10:35着、12:00神谷ドライバーと合流。

糸満市・轟の壕:ごつごつした岩穴へ降りていくと真っ暗で、不衛生だったろうと思う。

ひめゆり平和祈念資料館:少年少女2240人が動員され926人が死亡。若者達の無念さを思う。

荒崎海岸・女子学徒散華の碑:ごつごつした岩の上へ追い詰められた女子学生たちは自決した。

平和祈念資料館・平和の礎・摩文仁の丘:国内外の戦死者約24万人の氏名を刻む墓碑がある。

4/13(金) 10:00~18:00本部町・国立美ら海水族館:ジンベエザメや最大級マンタなど。

美しい海が広がる平和なワールドだが、眼前には伊江島補助飛行場が見える。

名護市・辺野古弾薬庫:普天間飛行場の代替新基地が完成すれば出撃拠点としての利便性が高

まる。道路沿いに反対する人たちがプラカードを掲げていた。一女性が若い警官に訴えていた。

読谷村・シムクガマ:比較的歩きやすく、水も流れていた。ここにはハワイ帰りの日系2世が

いて、「米軍はやたらに人を殺さない」と説得し全員が無事に捕虜になったという。

4/14(土)9:00~17:00 読谷村・米軍上陸地:今は静かな浜辺である。太平洋の米軍は、

日本の太平洋沿岸の重工業地帯を攻撃するため、当初台湾に上陸する予定だった。しかし、

兵力や補給力が不足していることを理由にルソン島、硫黄島、沖縄の占領を優先する。

3/23沖縄全域を米軍機動部隊が空襲を行い、3/24には艦砲射撃が始まった。4/1米軍は艦船

約1500隻、兵員18万3千人(日本の2倍以上)で無血上陸してきた。補給部隊も合わせると

総勢54万8千人の大兵力だ.日本軍は島内へ引き込んで地下陣地で戦闘するという持久作戦を

立てたので、数日で北、中飛行場を占拠された。住民は疎開が遅れ着の身着のままで逃げ、

チビチリガマなど日本軍がいた所では「集団自決」が相次いだ。米軍は約30万の住民を保護

する計画を立てていたというのに。

サトウキビ畑の碑:寺島尚彦作詞・作曲、娘夕紗子歌。慰霊の気持ちを込めて歌を口ずさむ。

沖縄市、嘉手納町、北谷市・嘉手納基地:4千m級の滑走路2本を持つ東アジア最大級の米

空軍基地。

宜野湾市・佐喜眞美術館:丸木位里・俊夫妻の「沖縄戦の図」や亀甲墓。6/23慰霊の日に

屋上の階段の先端にある窓から夕陽が差し込むそうだ。

嘉数高地:宜野湾市の住宅街の中に盛り上がっている嘉数高地は米軍との激戦地となる。

嘉数高台公園からは眼下に米軍普天間飛行場が一望できその広さ(約481㏊)は圧倒的だ。

世界戦略中継拠点としての最重要基地という。トーチカ(銃撃用の防護塚)が残っていた。

那覇市・不屈館:米軍占領下の沖縄で「一握りの砂も、一坪の土もアメリカのものではな

い」と闘った瀬長亀次郎と民衆の記念館。沖縄県知事、国会議員を歴任し「弾圧は抵抗を

呼ぶ。抵抗は友を呼ぶ」と書き、民衆の先頭に立って生涯闘い続けた。大衆性がありおご

りがなく、国会では静かに事実問題を突きつける追及ぶりだった。映画「米軍が最も恐れ

た男 その名はカメジロー」がある。

対馬丸記念館:1944年学童集団疎開の子どもたちを沢山乗せて那覇港を出発した対馬丸は、

米潜水艦の魚雷攻撃により、1788名の乗船者のうち約8割の人々が海底へと消えた。船と

同じ大きさの記念館の内部には、亡くなった子供たちの遺影が展示されている。

<最後に> 沖縄全土で無念の死を遂げた人々の慟哭を聴く思いのする旅となった。愚か

な戦争をやめない人類に絶望もするけれど、一方不屈の闘いを続けた人々がいたことを知

り、力も得た。平和を守るために力を尽くしていきたい。(H)

資料/「観光コースでない沖縄」新崎盛暉他・高文研/「不屈館ガイドブック」編集委員会