オリンピックの再考を

2月20日、17日間の冬季北京オリンピックが閉幕した。パンデミックのさなかでの開催は2021年夏季東京オリンピックに続いて2回目となる。

商業主義に落とし込まれ、国の代表者の競技としての国威発揚のオリンピックになっている。スポーツの大会、スポーツによる友好・親睦・そして平和を願う大会から、年々かけ離れてきている。競技を放映できる高額な放映権で、アメリカ合衆国の特異種目はその国の時間に合わせて放映されるので、LIVEで見たい時は夜中になる。録画で良しとした場合でも、何が何でもオリンピックは開催される。高額な放映権金が入らずに赤字となることを回避するためだ。

もはや、スポーツによる友好・親睦・そして平和を願うクーベルタンの精神は忘れ去れた。開催地の人々との交流はなくなっている。政治的に利用される事態に陥り、今回も中国のウイグル族への人権侵害などを理由に、国家元首や大統領などのオリンピック開会式などの参加を取りやめる国々がみられた。そして、パンデミックがより勢いを増している。

オリンピック開催の意味はあるのだろうか?4年に1度、スポーツ選手はそのために猛練習に励み、その発表の場が必要との意見が聞かれる。それは国を背負った大会だからではないか?だから、ドーピング疑惑が生まれてくるのでは。殆どのスポーツは世界大会や国際大会が開催されている。そこで、技は磨かれ、スポーツによる親睦友好が育まれるのではと考える。ギリシャでの常時開催も叫ばれているオリンピック、もう一度スポーツの祭典に戻していくことが必要だ。

何よりもスポーツ選手が1人の人間として成長していくために、オリンピックの再考が必要だ。骨と筋肉だけの選手が4回転ジャンプを何回も飛ぶことより、表現力豊かな微笑みを浮かべたスケーターを見たい。